01.02.27 新しい単位“ニュートン”
01.02.01 シャンプーとリンスのバリアフリー
01.01.31 ベールを脱いだ博多小学校新校舎
01.01.14 マンション建設に反対するマンション
建築設計業務の中で構造計算があります。建物が壊れずに長くちゃんと建ちつづけるように基礎や柱、梁などの仕様を決めるために構造計算書を作成するわけですが、この中に随所に重さの数値が出てきます。これまではその単位が“t(トン)”や“s(キログラム)”でしたが、昨年“N(ニュートン)”に変わりました。建築確認等の行政の取り扱いもそうなっています。一般の方たちには未だ馴染みがないかと思いますが、建築だけでなく土木の世界でも既に“ニュートン”に切り替わっています。
1s=9.80665Nで、非常に半端な換算率になります。子供たちの学校の教科書を見るとまだ“N(ニュートン)”に変わっていないようですが、これから変わっていくのでしょうか。徐々に変わるのではなく、ある年度から全面的に変わると考えるのが妥当な気がしますが、その時は学校の教科書だけでなく社会全般に関してある時一斉に変わりそうなですね。まだ社会的にはそれほど話題になっていないのはどうしてでしょう? 昔、日本古来の単位である“間”や“坪”を廃止してメートル法に統一するというのが(私の記憶ではちゃんと法律で)ありましたが、今現在、建築の世界でも“間”や“坪”が日常的に使われています。どこでどうなったのか、どうもなし崩し的にそうなっているように思いますが、今回の“N(ニュートン)”に関しては、さて、どうなるのでしょう。
バリアフリー花ざかりの今日この頃です。バリアフリーというと、最近すぐ発想するのは床の段差解消や通路への手摺設置、車椅子の方たちのためのエレベーター設置などですが、要するに障害者の方たちや年配の方たちなど社会的に弱い立場の方たちにとってのバリア(障害物)をフリーにする(なくしていく)ということですから、いろいろなところに、いろいろな形で存在します。
各洗剤メーカーがシャンプーとリンスを発売していますが、シャンプーとリンスはだいたい同じような大きさ、同じようなデザインの容器になっています。で、ちょっと見ただけではどちらがシャンプーだかリンスだか分かりません。ましてやシャンプーで頭を洗って次に、目を開けられない状態で手探りだけでリンスをとろうとするとき困ったという経験はないでしょうか。実は必ずシャンプーの容器の側面とてっぺんに点字のようなデコボコ(凹凸)があります。これによって手探りだけでもシャンプーかリンスかを判別できます。これもバリアフリーです。
バリアフリーはその趣旨からいろんなところにありますし、今後もいくつかのパターンが追加されていくことでしょう。しかし、設備や器具などの“もの”よりも、一番のバリアフリーは健常者が社会的に弱い立場の方たちに対する気持ちや接し方など、いわゆる“心のバリアフリー”です。
工事中の博多小学校新校舎の仮囲いがとれ、ほぼ全貌が道路からでも見えるようになりました。いよいよ開校間近です。大博通側からは目の前に体育館が見えます。この体育館の上が開閉式屋根付の屋上プールになっています。体育館はガラス面を多く大きくとり、外から中がほんとによく見えます。
校舎棟は北側に建ち、地下1階地上5階建てになっています。凹凸の多いデザインで、小学校の校舎には見えない斬新なものです。
設計・運営の骨子の主なものは
・教室の壁を設けない“オープン教室”
・従来型の職員室を設けず、各階に“教師コーナー”を設ける
・音楽室、図書室、ランチルーム、メディアセンターなど多くの部分を地域に開放する。
・敷地周囲に塀を設けず、オープンな学校とする。
等々、新しい試み、企画がたくさん盛り込まれています。誰からか聞いた話では、日本一の設備だそうです。 この中で敷地周囲に塀を設けないというのは、やはり本当にそうなるのでしょうか。平日の昼間は何となく開放的でいいイメージも湧きますが、休日や夜間など人気が少ないときを考えると少々心配な気もします。もし本当に塀を設けず、いつでも誰でも自由に出入りできるのであれば、どれくらい中の方まで自由に入っていけるのでしょうか。死角となるところまで入っていけるとなると、ヤバイ気がします。このへんのことよく知っている方、掲示板に書き込んでくれませでしょうんか。
また、新しいハード(建物)とともに新しいソフト(教育)もスタートします。先生方にも是非、頑張って頂きたいとお願い申し上げる次第です。
新博多小学校(ハード+ソフト)は校区の定住人口及び児童数の減少傾向に歯止めをかける力となりえるでしょうか。小学校と地域の連携は一層綿密なものにならないといけません。
時々、福岡市近郊部などで“マンション建設反対!”の看板を掲げているマンションを目にします。なんだか不思議な気がします。“緑を破壊するマンション建設反対!”と書いてある看板を見た記憶があります。この場合、反対するマンションが建設されるときに消失させた緑の量に比して、計画されているマンションの方ががはるかに大きな量の緑を消失させるということなんでしょうかね。量が同じぐらいなら反対できない気がします。同じような場所で同じように緑を消失させていれば、お互い様ですから。早くやったものはよくて、あとからやるのはダメというのは公平じゃないでしょう。別の理由があるんでしょうかね。
私も独立開業前の若い頃、賃貸マンションの設計をしたとき、北側に既に建っていたマンションから“建設反対”をいわれた経験があります。このときは日当たりの問題が主でしたが、確かにこちらのマンションが建つとある程度北側のマンションの日当たりを悪くしますが、お互いの建物同士20〜30m離れていて、それほど極端に日当たりが悪くなる訳ではないと思いましたし、北側のマンションの更に北側には20〜30mも離れていないところに別の建物があったので、そちらの“日当たりの迷惑”の方がよっぽど大きいと思いました。でも、そういう意識は全くないように見受けられました。
どうなんでしょう、こういう問題は。どうも最近は、国民の“被害者意識”が肥大しているような気がします。“被害者意識”と“加害者意識”、“権利”と“義務”、“社会から受けるサービス”と“自分が社会に対して行なうサービス”、これらのバランスが少々、崩れてきてはいないでしょうか。
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